飲茶のくにのブー

幸せってなんだを考えすぎずに考える雑記ブログ

氷川きよしのボヘミアンラプソディーを聴きながら、自分らしさについて考える。

ちょっとご無沙汰してしまいました。ブーです。


突然ですが私、氷川きよしに会った事があるんです。いや正確に言うと、ナデナデしてもらった事があるんですよ!えへん。


10年前、デビュー10周年の頃のきよし。

今から10年前になります。
香港のとある場所に「氷川きよしが来る」という情報を聞きつけ、何気にファンだった私は身重だったにもかかわらず、日本から1枚だけ持ってきていたきよしのCD片手に、妊婦かよって勢いですっ飛んで行きました。


実物のきよしは本当にスラリと華奢で、綺麗で、なんというか「はかなさ」がありました。快くCDにサインしていただいた後、図々しくも「安産祈願にお腹を撫でてもらえませんか?」とお願いすると「はい」と言ってお腹を撫でてくれました。きよしは本当に優しかった。(おかげさまで長女は無事に産まれてきました。すごいぜ、きよしパワー!)

当時、ファンは心配していた。

その後、当時のブログにそのことをアップすると、きよしの熱狂的なファンの方からメッセージをいただきました。

「きよしくん香港では元気でしたか?最近元気が無くて心配しています。」

え、元気がない?…確かに言われてみれば、少し陰がある感じはしたけど。

自分の中で、10年じゃまだ生意気だけど、20年でようやく歌手として成人を迎えたような感じがしてきて。

と、最新のインタビューにある事から、デビュー10年目の10年前、きよしが悩んでいた事がわかります。

 みんなが求める「氷川きよし」に徹してきたけど、40歳を過ぎて、人としてもっと表現の幅を広げたいという気持ち。そもそも演歌というのは様式美、つまり、こうあるべきという型がある。日本独特の素晴らしい音楽だけれど、その中に収まらない「自分の性分」というものもあって――。


それから更に10年…男らしさを求められながら、演歌の貴公子のイメージを守り続けていたんだと思うと、心が苦しい。




今年、デビュー20周年でついに。

先日、きよしがクイーンのボヘミアンラプソディーを日本語で熱唱している姿を、たまたまつけたテレビで見ました。

湯川れい子がクイーンに交渉し、湯川れい子自ら日本語の歌詞をつけた、はじめての日本語版ボヘミアンラプソディー。(やるからにはちゃんとオペラの部分もやりなさいよ、と湯川れい子から言われたらしい。あんなのどうやって歌うんだろう…)

きよしのボヘミアンラプソディーはテレビで一部だけ放映されました。名曲だけに日本語で聴くのは最初は違和感があったけど、きよしの今までの人生を考えながら聴いていると歌詞に更なる深みが増すような気がして、鳥肌が立ちました。

語りかけて歌うシャンソンに似たような歌い出しで「ママ…殺しちゃった…」から始まる壮絶な歌詞と、サビの部分で「生まれて来なければよかった」と歌う魂の叫びみたいな歌声が、胸にグサーっときて、何か込み上げるものがありました。なんだろう、もう泣きそうでした。


湯川れい子がコンサートのリハーサルを見にきた際、きよしがこの歌をまだ歌いこなせておらず、あまりの未完成ぶりにどうしよう思った、とインタビューで語っていました。彼女がクイーンに交渉し自ら作詞もした訳だから、やっぱり責任ありますものね。
その時彼女は、きよしに「歌おうと思うな、演じろ。フレディでもきよしでもなく、この曲の主人公になれ」とアドバイスしたそうです。

そして、きよしはコンサートまでに「ボヘミアンラプソディー」をしっかり仕上げ、自分のものにしたんですね。




こうして、自分らしい歌を自分で選び、自分らしく歌う。当たり前のことが、なかなかできなかった。デビューから20年も経ってようやく歌が楽しいと思えるようになったなんて。よく長いこと頑張ったなあと思う。自分を押し殺して、みんなの為に生きて。辛かったろうに。

 今までの苦難も含めて全部をさらけ出し、歌にのせて表現することで、こんな私でもここまで頑張って生きてこられたんだ。そう伝えるのが歌手としての使命。人生の後半は、それを表現していく生き方をしたいなって。「週刊新潮」2019年12月19日号 掲載

フレディがスターで崇められる存在であっても、孤独と戦い、自分のアイデンティティやセクシュアリティで悩んだことを、きよしは誰よりも理解できると思うし、むしろきよしだからフレディの曲を歌いあげる事ができるんじゃないかと思う。洋楽ファンやクイーンファンは気に入らない人がいるようだけど、コピーじゃなくてカバーだから。同じもの求めたらダメよ。


あなたの自分らしさはなんですか?

自分らしく生きるって大変なことだ。私なんて、まずその「自分らしさ」がイマイチわからないのだから。分からなくても、人はそれを探しながら、挑戦しながら、そして周りに感謝しながら、優しさを伝えながら、生きていくものなのかなぁと、きよしの歌を聴きながら思いました。

それにしても、クイーンもいいんだけど、やっぱり夏に盆踊りで老若男女入り乱れて踊るズンドコ節はまた格別ですよね。ズンズンズンズン言ってるうちに、悩んでるのが馬鹿らしくなる。いや、悩めなくなるという方が正しいかもしれない。

きよしの曲は振れ幅が大きいとこがすごいと、つくづく感心する。これからどんな曲を歌うのか、どんな発信をしてくのか楽しみだし、応援したいです。



長々とお付き合いありがとうございます。
よい1週間を!